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    • 歯科医学の進歩と歴史

    • わが国への歯科医学の渡来経路は


      ■中国を中継し漢学によるもの
      ■外国人、殊にポルトガル人、オランダ人によっていわゆる南蛮医学あるいは蘭医学の一科として渡来したもの
      ■渡来した外国人歯科医師によって直接わが国に紹介されたもの
      ■外国に渡り日本人が歯科医術を修得し、帰国後わが国に紹介したもの
      の4つであるといわれる。


      とくに、外国人ではシーボルトのように外科に長じたものは外科的歯科処置したといわれる。
      これらの洋方医術が近代歯科医学の嚆矢でもある。外国人歯科医師では、W.C. イーストレーキが1860年(万延元年)横浜に来たのを最初とする。

       

      1870年(明治3年)、新政府は「医学取り調べご用掛」の諮問を受けて、ドイツ医学の導入を決定し、相手政府に指導者の派遣を要請した。
      これに応えて翌年、早速ドイツより2人の指導者が来日し指導にあたった。こうしてオランダ医学からドイツ医学へとの移行が始まっていったのである。

       

      一方、幕末から明治維新にかけての日本の歯科医療は

      1. 口中医 ( こうちゅうい )
      2. 開業歯科医
      3. 主に義歯を製作していた入れ歯師
      4. 主に抜歯をしていた歯抜き師
      5. 街頭で歯薬売りおよび抜歯などをしていた香具師(やし)
        に分類できる。現在の歯科医師の分業化ともいえる。歯科という名称は、大化の改新末期大宝律令の医疾令で、耳目口歯科と称されて以来、平安末期に口歯科となり、平安桃山時代に口中科に変わってから明治まで使用されていた。

      わが国最初の歯科専門医 小幡英之助
      1874 年(明治7年)発布の「医制」第37条に基づき、翌8年からまず、東京、京都、大阪の三府において「医術開業試験」が実施された。
      しかし、医制には「歯科」という名称はなく「産科、眼科、整骨科及口中科」とあり、一専門医として「口中科」が明記されている。


      すなわち、当時は、医師・歯科医師という身分制度はなく、口中専門の医師として扱われ、医歯一元制を採用していた。

      この医術開業試験実施を、小幡英之助は東京医学校(現、東京大学医学部)に歯科医術開業を目的として、「口中科」ではなく医制にない「歯科」という名称で受験を願い出た。
      先例がないため校長の長与専斎は諸教授と諮って、外科担当の赤星研造を試験主任とし、長与校長、石黒忠悳、三宅 秀らが立ち合って、わが国で最初の歯科専門の医術開業試験が明治8年4月中旬に行われ、その結果内務省衛生局雑誌第四号に「明治八年ヨリ同九年六月迄開業免状ヲ授譽セル醫師人名」中に歯科、小幡英之助、東京府寄留、小倉県士族、廿四年九ヶ月と公布された。


      しかし、当時歯科医師という身分制度は法令上にも存在しておらず、「医籍第四号」とし「歯科医術開業免許候事」とし登録されたのが明治8年10月2日である。
      小幡英之助は歯科専門医としての嚆矢であると同時に東京都における最初の医術開業試験合格者で医師の第一号は小幡英之助ともなる。

       

      小幡英之助は免許取得とともに、京橋采女町にいた隈川宗悦宅で開業する。

      その後の入門者は、関川重吾、桐村克巳らが入門している。
      1878年(明治11年)銀座に移り、開業する。
      小幡英之助は公事に携わることを好まず、侍医、試験委員などは要請があっても就任しないでいる。
      しかし、歯科医業にはよく精通し機器材料に工夫を凝らし、その向上に努めたといわれる。

       

      小幡英之助は1850年(嘉永3年)8月、大分県中津殿町に中津藩軍学師範小幡孫兵衛の長男として生まれた。
      1865年(慶応4年)に江戸へ出ていた福沢諭吉が中津へ帰ったとき、英之助と接触し、上京を考えたという。
      1869年(明治2年)に、叔父小幡篤次郎を頼って上京し慶応義塾に入っている。
      当時、新銭座に開業していた同郷の医師佐野諒元が小幡篤次郎名義の家屋を譲り受けて開業したときに英之助は入門し代診生にまでなったことから、外科医に適すると考えた叔父篤次郎は横浜の近藤良薫に師事させた。


      しかし、生来器用であったといわれる英之助は、横浜で開業していた米国歯科医師エリオットの門をたたき師事したのは22歳の時であり、その後の医術開業試験での歯科医第一号の礎となるのである。

       

      小幡英之助は資質きわめて頑固で、直言直行で、乗馬、相撲、釣魚、投網を好み、甚だ酒を好んだという。
      人情に厚く、業務上の器具に幾多の改良公安を施して歯科医術の向上に努めた。

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